日本はドンドン貧しくなっていく。
経済的にも精神的にも貧しくなっていく。
海外で生活していると、海外の物価がドンドン上がっていることをヒシヒシと感じる。
まいとしまいとし外食の価格は上がり、宿の金額も上がっているのだけれど、品質が上がっているわけではない。
相変わらずの低品質に関わらず、値段が上がっているのだ。
実際にモノを買って、使ってみるとわかるが日本のほうが圧倒的に高品質で低価格なものが溢れている。
「高品質を低価格で維持しようとする」のだからなのだけれど日本はやっぱり活気がない。
一方で、日本よりも不便ながらも経済的な発展がある国は、活気があっていいし、希望で満ち溢れている。
きっと日本の高度経済成長期やバブル時代もこんな雰囲気があったのかもしれない。
ただ、経済の発展は人々に活気を与えてくれるのだけど、一方で大切な心の概念も忘れされているように思える。
日本で言えば「徳」なのだろうし、キリスト教、イスラム教の国では、「愛」という概念になるのだろう。
経済が発展すると「お金」でものごとを解決できるようになるので「困ること」が減っていく。
モノが今ほど溢れていなかった時代は、今ほど簡単に「買うこと」すらできなかったはずだ。
便利なものほど、特別なコネやつてが無いと手に入らないものがあって「買えるだけ安い。売ってもらえるだけ安い。」という体験を多くの人がしたのだと思う。
でも、いろいろな不便や悩みをお金を払えば、知らない誰かから買うことができる今、人間関係を築かなくてもお金さえ払えば買えてしまう。
そうやって手に入れたものは、やっぱり粗末にしがちになるし、それは売ってくれた人のことを知らないので、感謝の気持ちも芽生えなければ、むしろ「変な商品を売りやがって」なんてクレームにまで発展する。
僕が今住んでいるスンバワという島は、人伝に頼らないと手に入らないものが沢山ある。
水道をひねっても飲水は出てこないし、日用品もすぐに壊れる質の悪いものばかりだ。
だから「良いもの」を大切にするし、それを手に入れてくれる人を大切にするし、手に入れられることに感謝が芽生えるし、手に入れたものを大切にしようとする。
自分と関係ある人の「ちょっとやそっとの失敗」で責めようなんて思わないし、むしろ逆に失敗したことについてカバーしようという思いまで芽生えてくる。
もちろんイライラもするし、いきなり大きな刃物を持ち出して喧嘩しようとするやつまでいる。
でも、そういう人をほっとかないというか、そういう人をしっかり面倒みる社会がここにはある。
寛容性というか、「一緒に生活するために(またはその人の人生をしっかり考えて)」しっかりと対応をする。
警察になんて頼らないで身内で解決する能力をみんながもっているというか、そういう思いなんだと思う。
たぶん、昔の経済が発展する前の日本には、こういう「徳」や「愛を持って接する」というのがもっとあったのではないかと思う。
少なくとも僕の祖父は、保険がなかった時代に、癌になってしまった奥さんに稼いできた給料を全て治療費に当てるなんていうことをしていた凄い人だと思う。
「お金が無いから、」じゃなくて大切な人・ものを大切にするっていうのは気概であるだろうと思う。
人が経済的に強くなると、心が弱くなりがちなのも、手軽な生きやすさを手に入れてしまったからなのだと思う。
心が弱い人が増えると、国自体もドンドン精神的に貧しくなり、豊かさから遠ざかっていくのだろう。
これは都会に行けば行くほど感じる。
日本からしたら不便なバリ島も、インドネシアでは大都会。
バリ島も精神性から資本主義へとドンドン流されていってしまっている。
人の表情もドンドン固くなってきている。
ジャカルタの人はもっと表情が硬い。
そして日本人の表情は能面のように表情がない。
お金に走れば走るほど、笑顔は消えていく。
お金がなくても大切な人は大切にするんだ。
大切な人のためには、お金がなくても必要とされているものは差し出すんだ。
コロナの影響で2年間まともに仕事がないのに、そして、自分よりも若いのに、ご飯を自分のために買ってきてくれる人が、ここにはいる。
これが普通。
そんな人で僕もありたい。
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